子宮のびょうき、記録

30代半ば、婦人病悪化。備忘録として、また同じ病気の方の参考に

51 術後下着事情

ドレーンを抜くまで、T 字帯というのをつけていたと思います。自分で付け外しをしていないのではっきり覚えていないのですが…。T 字帯は、手術をする時等に使う、ふんどしみたいな下着です。赤ちゃんのおむつカバーみたいになっていたと思います。

私はピンク色のものでした。何度か看護師さんに傷の確認等で外された記憶がありますが(マジックテープが付いている)あまりに看護師さんの手際が良いので、恥ずかしい場所を見られる羞恥心が薄くなる…(表すなら、ぺローンて感じです)。手術室で全裸にもなってますしね~。痛みもあるし恥は二の次に…。

話は戻って、生理用ナプキンと下着を持ち込むように手術前に言われていたので、この時下着を履きました。ナプキンは看護師さんが下着に付けてくれました。( ̄∇ ̄;)ハズカシイ。

私の場合は手術前から少しお腹が出てたんですが、術後も大きくなると情報があったので、かなり大きめを用意して正解でした。普通の下着だとゴム部分がちょうど傷に当たってしまうので、腹巻き付きパンツが便利でした。締め付けがツラいので、私は更にゴム部分を切り落としていました。

T 字帯を外しても腹帯(マジックテープがついた、お腹を守るもの。妊婦さん用と同じかはわかりません…)も付けていたので、かなりサイズが大きくなっていました。T 字帯も腹帯も、術後まだ目が覚める前にもう付けられていたと思います。気づいたら装着していました(^-^;。

50 減っていく管

朝何時頃だったか、冷えたパックのウーロン茶を出してもらえました。もう飲んでいいんだ、と驚きました。TVもつけてもらえました。

身体の管は点滴、ドレーン、導尿の3つになっていたと思います。そのうちに看護師さんが導尿も外してくれました。実は、寝ている自分からは管はひとつしか見えておらず、ドレーンのことは聞いていなかったので、ずっとドレーンの管を導尿と思っていました。ドレーンの管は(尿と思っていた)血の色が段々薄くなっていくのを確認していました。

朝食の重湯も出ました。お粥が少し苦手でもあるのですが、あまり食べられませんでした。後で調べたところ、手術に使うガスによって、食欲がなくなることがあるようでした。そしてその後も少しずつ、気持ちよく眠ることができました。

お昼近くになり医師の回診があり、ドレーンを抜くと聞いていました。この時初めてドレーンの入っているところをしっかり見ました。一番切った傷4㎝の端に5~7㎜くらいの管が入っています。痛いか不安なので看護師さんに聞くと「大丈夫だと思いますよ」ということでした。

医師が、管の出ているところをパチンと切ってから、ドレーンをすーっと引っ張りました。びっくりするくらい長く体内に入っていました。2~30㎝くらいあったように感じました。言われたとおり、痛みはなく、違和感だけありました。でも痛くないのが不思議でした。

ドレーンから出ていたものはお腹にたまった不要な血液等、ということでした。ドレーンの先は何か容器に入っていたようで、看護師さんが片付けてくださる時チャプンと音が聞こえました。その時の動作も考えると、1~2L くらいはあるように感じました。

49 やっとの夜明け

4時を過ぎ、外が段々明るくなってきました。やっと夜が明けた、ととてもほっとしたのを覚えています。

一時間に一度くらい来てくださる看護師さんに頭にタオルでもいいから敷いていいか聞くと(血栓症防止か?枕はダメで寝ていました)、「もう○時間経ったから、少しだけならリクライニングで頭起こしていいですよ~」とのことでリモコンで少し起こしました。

そして、時間が経つうちに身体に繋がった管のうち、少しずつ外してもらえました。(おさらい:酸素、心電図、血圧、酸素濃度、点滴、ドレーン、導尿、血栓症防止のマッサージ)どういう順だったかは覚えていませんが、初めは酸素の管だった気がします。

夜が明けたことでよほど安心したのか、やっと麻酔が抜けきったのか、その後は少しずつ、気持ちよく眠ることができました。

書ききれませんでしたが、何度ナースコールを押したかわかりません。一番来てくださった看護師さんに、(多分、私の病室担当だったと思われる…)交替される前にせめてものお礼を伝えました。それだけでは足りないほどでしたが…。

※夜中の少し乱暴な看護師さんはその後退院まで姿を見ませんでした。

48 ようやくうとうと

眠れない時間が続くなか、ようやく麻酔が切れたのか、10分くらいうとうとすることができました。すると劇的に意識がはっきりしてきました。看護師さんに言いたいことを少し言えるようになっていました。(まだでも少しずつですが)

ベッドの上で少しでも動いた方がいいと、クッションをおいてもらえました。また、枕元にテッシュをおいてもらい、(痰を出す用)持ち込みの私物から携帯とマスクをとってもらいました。

時間は、夜中の3時でした。手術が終わってから11時間経っていました。とても長く辛い時間でした。その後も眠れる訳ではなく、携帯の時間を確認すると2分しか経っていない、という時間が続きました。

夏だから、きっとそのうち外が明るくなってくるはず。それを心の頼りに、過ごしていました。明るくなると気落ちも少し楽になる感じがしていました。

暇なので、ひたすら痰を出していました。マスクもしたかったのですが、その時は気づかなかったけど(あまりにも頭が働かなくて)酸素の管があるのでゴムがきつくて、なるべく口にあてるようにしていました。私は扁桃腺が大きいので日頃から喉が腫れやすく、高熱が出るのを恐れていました。

47 意識朦朧続く

看護師さんがうがいをすすめてくれました。(術後痰を出さないと、喉が痛くなってしまったりする)何とか頷くことができ、寝たままストローでうがいをさせてくれました。吐くのはトレイのようなものへ。

時間が経つのがあまりにも遅く、辛い時間が続きました。足の血栓症予防のマッサージはずっと動いていました。絶対眠れないし、暗くするとますます気落ちしそうで、怖いという思いさえあり、部屋の電気を消さないでいてもらいました。

耐えかねて、ナースコールを押しました。それまで見かけたことのない看護師さんのようでした。うがいをお願いしました(この時は話せたようです…)。

それまでの看護師さんと違い、やや乱暴にされました。イライラしているようでした。私は辛い状況でとても弱気になっていて、怖いとさえ思いました。次のナースコールもとてもためらいました。あの看護師さんがまた来たらどうしよう、と。

近頃、高齢者施設などの施設で職員による虐待のニュースを聞きます。大げさですが、虐待される側の気持ちがわかるような気がしました。

46 術後朦朧

家族が帰ったのは術後3~4時間後のことだったようです。私はそれからの方が朦朧としていました。麻酔+痛み止めのせいかもしれません。

朦朧とする中、寝ることもできず、思いつくとりとめもない考えが次々よぎっていきました。「あの時友人がああ言ったのはこういう状況だったのではないか」「あの芸能人は…」といった感じで、暇だから考え事、という感じではなく、脳が勝手に再生するみたいな感じで(よく聞く走馬灯に近いかもしれません)、平常時には体験したことのない感覚でした。

とはいえ脈拍や心電図など管理されていましたので、異常はなかったと思います。ただ、家族がいる時の最高血圧は、普段ではあり得ない130台だったそうです。(普段は高くても110くらい。)

脳死判定され植物状態だった人(確かアメリカ人の人)が、意識をとり戻し当時を語っていた番組を、入院前に見ていました。日本人でも漫画家の人が同じようなことを書いていました。

術後何時間経っても意識がはっきりせず、時々来てくださる看護師さんにも言いたいことを言えない。手術で起こり得る合併症、事故なども術前説明やネットでもよく調べていました。

あの証言とよく似ている。時間を重ねる毎に、自分は手術の合併症で、もしかしてこのままの状態で生きていかないといけないのではないか?!と怖い考えになっていきました。…勿論、時々来てくれる看護師さんに聞くことはできません。

45 手術すぐ後

術後朦朧とする中、自分の病巣がどうだったのか気になりました。でも結構な痛みもあり、かなり弱気になっていて(痛いところがあると気が弱くなるもので…)まだ聞きたくない…と思っていました。

すぐに家族が側にきてくれましたが、それはわかるのにちゃんと意志疎通が出来ません。後で聞いた話だと私は何を聞いても「お腹が痛い」としか言わず、看護師さんに追加の痛み止めをしてもらったようでした。麻酔が覚めた後末梢神経ブロック注射(予定通りの)をしてもらっていたにもかかわらず(その経緯は全く記憶になし)。自分の思いとしては、痛みが増すのが一番怖かったのです。救急車を呼んだ時の痛みが忘れられなかったからだと思います。
追加の注射をされたのは覚えています。お尻にされ、それほど痛くないと思った記憶もあります。

家族や看護師さんが言っていることは理解できるのに、話したいのに話せませんでした。眠っていると思われていても実は会話が聞こえていたり、眠れた感じもなく、患部は痛いし、身体には管がいっぱい繋がって違和感だらけで、辛い思いしかありませんでした。

結局数時間家族を数時間引きとめてしまったようでした。寝た実感はなくても、恐らく少し意識がとんでいたようです。この日は家族が病室に泊まることは出来ません。ようやくのことで「帰るね」という声に頷くことができたように思いました。